『定本 黒部の山賊 アルプスの怪』

 

著者:伊藤正一

出版社: 山と渓谷社

発売日: 2014/2/22

 

戦後間もない日本、人々は生き残るために必死で、荒れていた。
どこを見回しても食糧難、行き倒れの姿は日常の風景としてあり、都会ではピストル強盗が横行していた。
簒奪は山においても例外ではなく、小屋から生活用品が持ち去られるなどはマシな方で、極端な事件では食糧を奪うために登山者が殺されることもあった。

 

世相である。人々は山に不安を抱いていた。
山を根城に登山者や猟師から物品を奪う山賊がいる、そういった噂が現実のリスクとして捉えられていた。

山で生きるということ

著者の伊藤正一が山に人生を捧げる背景は、このようなものであった。
めぐり合わせで三俣小屋の権利を手に入れた著者は、自分の小屋を山賊が占領しているらしいことを聞く。
放置するわけにもいかないと、山賊との接触を試みる。
殺されることもある、警戒して第三者を装いながら相見えた山賊は小ざっぱりした紳士風の、話の上手い男だった―

 

本書は、北アルプスに新道をつくり、山荘を建て、 黒部源流域のフロンティアを代表する著者の、山賊との出会い、共生、山で体験した怪異の数々を綴った記録である。

 

誤解が生んだ緊張の出会いから、いくつかの交渉を経て、山賊の素性が明かされる。
彼らは、”賊”という呼び名から想像されるごろつきではなく、国が山林を所有する以前から山で生活の糧を得る、気のいい人々であった。1

 

小屋の再建から著者と山賊との暮らしが始まる。
描かれる山賊のスキルとタフネスはいずれも超人的だ。
熊は数キロ先でも見つける、岩魚は調子いい日で十貫(約38kg分)釣る、常人であれば四日かかる道を一日で踏破する。
また、ホラともつかない面白話を豊富に持っている。
黒部の岩魚は自分が放流して殖やしたものだ。
「おーい」の呼び声は人ではないから「おーい」で返してはいけない。
カベッケが原では毎年夏にカッパが盆踊りをする。
ときに陽気に、ときに大真面目に彼らは話をする。
根が理系の著者は冷静に受け流すも、自身も何度となく怪異に立ち会う…

 

話の中心は、山賊から山の厳しさへと移っていく。
登山者は跡を絶たない。埋蔵金目当てで訪れる者もいる。
一方で、山は経験者も初心者も、等しく命を奪う。一歩の違いが生死を分ける世界なのだ。

 

密な関係を築いてきたとはいえ、山賊べったりの文章ではない。
それでも、遭難者が出たとき、自分と山賊なら見つけられるといった確信を抱くあたり、山賊への厚い信頼が読み取れる。

 

山の日常は、人も自然も、ちょっとした異界としての面貌を浮かび上がらせる。
彼らに会いたい、山に生きたいと思わせる本書は間違いなく名著の一つだろう。

  1. この点については、「山賊」と呼ばれた本人が語る『新編 黒部の山人 山賊鬼サとケモノたち』を参照すると面白い