閉じこもるインターネット グーグル・パーソナライズ・民主主義

 

著者:イーライ・パリサー

出版社:早川書房

発売日:2012/2/23

 

Googleの掲げる行動規範”Don’t Be Evil”はあまりにも有名だ。
検索エンジン、オンライン広告、その他あらゆるWebサービスを高いレベルで提供し続ける大企業は、膨大なユーザーデータを囲い込むことに成功した。
その影響力を自覚しているがゆえに、行動規範を表明する必要があった。
ところが、2015年、Googleを包摂するAlphabetとして再スタートを切った巨大IT企業は”Don’t Be Evil”から一歩踏み込み、”Do the Right Thing”を規範として表明した。
中立から善へ―
思い切った方針転換は、これから紹介する著書の願いが届いた結果かもしれない。

インターネットに身を預けるということ

かつて、インターネットは知の海だった。
ワールドワイドの名にふさわしく、世界中のあらゆる場所から、人々は情報にアクセスすることも発信することもできた。
加えて、インターネットは匿名媒体としての性質を持っていた。
政治家や作家、その他従来のマスメディアから情報を受け取る立場だった一般の人々が、自ら不特定多数に向けて情報を発信する立場となった。
このとき、”誰が”発信者であるかを表明することは、重要視されなかった。
インターネット上の”誰か”ということで十分だったのだ。

今だってそうだ、と思うだろうか。

多様なサイトが生まれ、情報へのアクセシビリティは、以前と比べて向上しているかもしれない。
匿名の誰かとして発信する文化もいまだに続いている。
インターネットはどこまでもオープンに思える。

一方で、明らかに状況が変わっている面もある。

インターネットを通じて得られる情報はあらゆる分野にわたるはずだが、日常において、未知の世界を覗こうと熱心にネットサーフィンを行うユーザーがどれだけいるだろうか。
そもそも、90年代から使われている「ネットサーフィン」という語に違和感を感じないだろうか。
毎日のようにSNSにログインし、巡回サイトをチェックするユーザーを指して”ネットサーフィンする”とは誰も言わないだろう。
当たり前すぎて語感として野暮だし、第一”サーフィン”していない。
どちらかと言えば、田んぼの様子を見に行くようなものだ。
インターネット上で確保した領地の、限られた範囲での変化を観察する毎日というのが大多数のネットユーザーの日常だろう。

匿名性についてもそうだ。
現在、インターネットに自身のプロフィールを残すことに抵抗感を持つ人が、今、どれだけいるだろうか。
ブラウザからECサイト、SNSに至るまで、インターネットがもたらす利便性を享受するためにプロフィールは必須だ。
複数のサービスにまたがってアカウントを管理するよう求められても苦労だとは思わない。
ブラウジング、メール、クラウドストレージ、予定管理、動画配信…
いったんアカウントを登録してしまえば、これらのサービスを一括して利用できるのだから。
私たちは進んでプロフィールを作成する。
つまり、個人情報を提供する。
用心深いユーザーであれば、可能な限り匿名性を守ろうとするかもしれない。
でたらめのプロフィールでアカウントを作ることもできるだろう。
しかし、そのアカウントを使う限り、隠せない情報がある。
ユーザーの好みだ。
日々表示される”あなたへのおすすめ”は、ユーザーの閲覧履歴、クリック行動履歴に従って表示される。

プロフィールの真偽にかかわらず、自己同一性を保持してしまった瞬間から、ユーザーは匿名の誰かではなく”あなた”となってしまう。

インターネットは自由な知の海か

本書はインターネットが実現した情報の民主化、匿名性の現在に疑問を投げかける。
原題は”Filter Bubble“。
自由なインターネットはもはや過去のもの。
私たちのアクセスは、好みに合わせてチューニングされたフィルターを通してのみ実現されているというのが著者の主張だ。

著者のイーライ・パリサーはアメリカ最大のリベラル系市民政治団体の1つ、「ムーブオン」理事会長。
著者がインターネットの未来に不安を感じたきっかけは、ささやかながらも、明らかに作為を感じる出来事だった。
SNSのニュースフィードに、自分と異なる政治的主張を持つ友人が表示されなくなったのだ。

著者はリベラルの立場ではあるが、保守系の主張を排除したいとは思っていなかった。
むしろ異なる立場の視点を知り、議論を深めるべきという信条だ。
しかし、SNSは著者のインターネット上の行動を日々追跡したうえで、著者用にカスタマイズされたフィルターを提供したのだ。

問題は、あくまでサービスの一環として、フィルターが形成されるということ。
ユーザーにとっても、”おすすめの記事”や”関連商品”が表示されることはありがたい。
知りたい情報が、求めずとも自然と提示されるのであれば、時間の短縮にもなるし、よりスマートな情報化社会が実現しているようにも思える。
しかし、耳当たりの良い情報ばかりに囲まれて自足してしまう弊害もある。

似たような視点から伝えられるニュースは視野を狭め、偏った見方を補強していないだろうか。
あるいは、未知の世界やランダムな情報にアクセスすることで生まれるセレンディピティ(ひらめき)の可能性を殺してしまわないだろうか。

広大な知の海のはずが、自室ほどの狭さに閉じこもる場所となっていないだろうか。
当サイトで繰り返し特集しているWebマーケティングの技術は、裏返せば、本書が警鐘を鳴らす対象だ。
Webでマーケティングを行う仕組みは洗練されつつある。
ユーザーのニーズとのマッチングを重視し、適切な商品へと誘導する。
ユーザーの行動を追跡し、集積したデータから最適なプロモーションを実行する。
効率化をもたらすツールはWebビジネスを展開する中小規模の企業にとって福音だが、”Don’t Be Evil”の責任を伴うともいえる。
また、企業にとってもユーザーにとっても利益を得られる仕組みは、一面ではインターネットの在り方を狭めているのかもしれない。

著者がインターネットの可能性を信じるように、インターネットの集合知を復権させるため、より良い未来を模索する道を採るべきだろうか。
意地の悪い見方をするならば、そもそも人は見たいものを見るようにできているのだから、インターネットがフィルターバブルの様相を呈するのも、インターネットの自由が実現した結果であるともいえる。

ユーザーとして、あるいは企業としてインターネットとの関わり方を再考するための一冊だ。