物質と意識 脳科学・人工知能と心の哲学

著者:ポール・チャーチランド (著),‎ 信原 幸弘 (翻訳),‎ 西堤 優 (翻訳)

出版社: 森北出版

発売日:2016/8/18

 

とはなにか、という問いは古来から人間の関心事だ。
心を問うことは内観(自己意識、自分自身の精神状態や動きを内面から観察すること)を問うのに等しく、人間存在の根本に迫る考察でもある。
こうした問いを、わたしたちは哲学と呼ぶ問題領域に閉じ込めてきた。

しかし、時代が下るにつれ、意識や心に関係があるとされる物質が科学分野の観察によって明らかにされる。
脳や神経が知覚、ひいては自己意識を左右し、コンピュータが知能の働きをシミュレートできることが分かったのである。

本書は、心と物質をめぐる存在論的問題、意味論的問題、認識論的問題などを紹介し批判的吟味を加える。
さらに、神経科学、認知科学、人工知能開発の知見を紹介して、心の哲学との接続をおこなう。

哲学が蓄積してきた豊富な問題提起を踏み台にして筆者が支持するのは、消去的唯物論という大胆な仮説だ。

 

素朴心理学から消去的唯物論へ

心について考えるとき、身体との関係をどう捉えるべきかという問題が立ち現れる。
何かを感じたり、思ったりという内観には、独特のもっともらしさがあり、いわば自明のことのように捉えられる。
独特、というのは自己については当たり前でも、他人についてはどうか分からないからだ。
他人について客観的な叙述ができても、内観について客観的な叙述はできない。

同様に、身体については客観が有効だが、心については疑わしい。
その特別さをもって、魂のようなもの、物質とは全く別の存在を心として措定する考えもあるだろう。
一方で、心に生起したことが身体に作用する(またはその逆が起きる)のも間違いないように思われる。
すると今度は、物質として存在しないものが物質に影響を及ぼすということは可能かどうか、疑わしくなる…

このような問題を追及すると、言語(心について語るとはどういうことか)や認知(心について知るとはどういうことか)の問題にもアプローチしなければならない。
伝統的な二元論や哲学的行動主義、機能主義といった、哲学の悪戦苦闘の経緯が本書ではわかりやすく概観できる。

筆者がなかでも支持する消去的唯物論は、存在論的には唯物論(心は物質に帰属する)である。

唯物論は、従来の知見では意味論の側面から問題を抱えがちだった。
例えば哲学的行動主義では、ある心的状態が現実的かつ可能的な行動パターンへと還元できるとするが、スマートな解決とはいえなかった。
「アンはカリブ海で休暇を過ごしたい」という状態は「旅行のパンフレットがあればアンはそれに目を通すだろう」といった無数の条件文を構成すれば説明できたことになると、哲学的行動主義は主張する。
しかし、突き詰めれば、条件文についても新たな心的状態が付随することになってしまう。
「旅行のパンフレットにうんざりしていなければ」という仮定があってはじめて、「アンはそれに目を通す」が真となるのだから。

こうした厄介さはわたしたちが素朴心理学の枠組みから脱却できていないからだ、と消去的唯物論は主張する。
素朴心理学というのはつまり、「信じる」とか「欲する」といった、内観を説明する端的な言語を自明とする考えのことだ。
であれば、素朴心理学がそもそもの誤りではないか。
素朴心理学は認知科学、神経科学の発達により消去され、明らかになった脳や神経の働きに即した新たな内観の説明を採用することになるだろう…
驚きの仮説ではあるが、唯物論の弱点をひとまずクリアするとともに、科学的知見によってサポートされる立場なのだ。

 

心に近づく科学

心に大きく関係するであろう脳と、その機能としての知能について、現代科学は神秘を明らかにしつつある。
人工知能については、計算によるシミュレート・問題解決から、視覚や自然言語操作といった知能の再現が可能となりつつある。

ところで、知能が再現できたところで、内観を保証するものではないという反論がある。
これは「中国語の部屋」という思考実験で説明される。
中国語を全く介さない英国人が部屋に閉じ込められたとしても、中国語と英語の完全な対訳マニュアルがあれば、部屋の外部と中国語でコミュニケーションをとることができる。
このことをもって、英国人は中国語を理解しているとは言えないだろう。

反論に対する反論として、英国人ではなく、翻訳マニュアルと英国人をセットとして、部屋全体を一つの主体として捉えれば、部屋は中国語を理解していると見ることもできる。
脳とはまさに、部屋ではないか。
知能や知覚について、脳科学や神経科学はその物質的由来(ニューロン)を明らかにしつつある。
脳の働きと知能の因果関係は、部屋そのものが主体であるするのに差し支えない根拠となりそうだ。
少なくとも消去的唯物論はそう考える。

消去的唯物論が提唱するような未来は実際に訪れるのであろうか。
「わたしは信じる」といった説明が、「わたしのニューロン反応は〇〇した」といった説明に置き換わるというように。
突飛なことにも感じられるが、歴史的に、広く信じられてきた素朴な信念が否定されるという例は珍しくない。
かつて、人が「生きている」ということは「人には生気があり、ゆえに生きている」と説明されてきたが、今では「生気」は比喩としてのみ使われている。
同様に、素朴心理学が棄却されるのも、全くあり得ないことではないのだろう。